田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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18.たなかすみこものがたり7-1 戦後のすみれ会。GHQ関係者の生徒。すみこの2番目の出版。

破壊し尽くしたあの悲惨な戦争が終わった。世の中が少し明るさを取り戻したようだ。

すみこの実家、そして長兄の家は戦災に遭ってしまった。しかしすみこの自宅は無事であった。

すみこ自慢の銀座の父の店はなんとか無事だったようだ。しかし進駐軍に接収されてしまった。そのビルは進駐軍が白いペンキを塗りたてて改造されてしまった。そのことに父、黒澤貞次郎が嘆いたという話が、『虹色のひらめき』にある。(118ページ)

しかし、すみれ会には「GHQの関係者」が習いに来るようになったようである。これは「すみこは英語が得意」ということで、何らかの紹介があったものと思われる。

 

 

『虹色のひらめきに』には、「GHQ関係者」は規矩士の東京音楽学校の筋と書いてあるが、これは私の推測であるが違うと思う。規矩士は戦後の東京音楽学校で吹き荒れた「粛清人事」に巻き込まれてしまったようである。規矩士は1946年(昭和21)9月に退職。東京音楽学校教授であったので仕方がなかった部分はあると思う。

元々すみこの実家黒澤家はアメリカと密接な商売をしていた。戦争中は途切れたようだが、戦後はまた密接な繋がりが復活したと思う。そして長兄敬一の所には音楽愛好家であった米軍の軍属、レオ・トレーナーが出入りしているのである。(この項目東京マドリガル会会員の松田喜久子様より教えていただきました。ありがとうございました。)

筆者のおぼろげな記憶だが、すみれ会で何かで戦後のGHQ関係者の生徒さんの話になった。その時誰かが「GHQ関係者はすみこ先生のご実家の筋よね」と言ったらすみこが「まあね」と言ったのを覚えている。(記憶違いだったらゴメンナサイ)

このGHQ関係者の生徒は、戦後まもなくの食糧難の時代、「食糧を分けていただけた」そうである。このGHQからの食糧は、すみこは生徒にも配っていたようで、「すみこ先生から食べ物をいただいたの」と語る古い生徒の話をにしきさゆりが聞いている。

規矩士は退職してしまったが、すみこはやっときた平和な時代。ますます音楽教室業に励むのであった。

 

1949(昭和24)年、天元社というところから、『ピアノ指使いの金條 附.新しい考案その二(おさなごのげんこびき)』を出版

表表紙

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『ピアノ指使いの金條』について

さて、1933(昭和8)年、教育音楽という雑誌に規矩士は「ピアノ演奏法について」という連載を持つ。この「ピアノ演奏法について」はこの当時二人が師事していた「クロイツァー教授の教え」を書いたものだとすみこは書いている。すみこ旧宅にこの規矩士の連載の切り抜きの一部が残されていた。

1981(昭和56)年のすみこの著書『ブルグミュラーⅡ』のあとがきに参考文献として田中規矩士訳『クロイツァー・ピアノ・テクニック』教育音楽社昭和18年とある。

しかし、この昭和18年は出版統制が既にあった。そしてそんな本は現在の所見つかっていない。

 

ここからは推測であるが、元々規矩士が雑誌連載した「ピアノ演奏法について」はいずれまとめて出版の話があったのかもしれない。しかし戦争激化で流れてしまったのかもしれない。

戦後出版しようとしたが、規矩士が粛清人事で退職。謹慎蟄居の身であった可能性があるので、(ずっと記載があった音楽年鑑に昭和20年代初めは規矩士の名前がない)戦後も出版出来ず。

そこですみこの名前で出版を考えたのかもしれない。

しかしこの「出版が出来なかった」というのがすみこにとって本当に悔しい事態であったと推測する。このあと昭和42年の『いろおんぷ法』、昭和50年代の『ハノン』『ブルグミュラー』『ツェルニー』に延々と同じことを書き綴るのであった。

1990年の2台のソナチネアルバムのあとがきにはこの『クロイツァー・ピアノテクニック』の話は書いていないので、やはりこの規矩士の出版の話は、戦争で吹っ飛んでしまったのではと推測する。

『おさなごのげんこ弾き』は1938年(昭和13)の『新しい考案』の軍国歌謡や戦争賛美を抜いて書き直した本である。

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しかしげんこ弾きの評判は今一つであったようだ。子供は思い切り加減をしないで叩くので「げんこの手が痛い」という声が多く聞かれた。

 

げんこ弾きのスタートアップ。披露演奏会。名古屋にて。野村静子とは規矩士の東京音楽学校時代の門下生。後に結婚して今岡静子となり、愛知教育大学教授となった。

横浜、鎌倉でも披露演奏会をやった。