たなかすみこと言えば「いろおんぷ」が有名である。
しかしたなかすみこがいつ「いろおんぷ」を開発したのかというのが、本人が書いた資料に食い違いが多く、はっきりしない。
1938(昭和13)年の『新しい考案』にはいろおんぷの記述はない。このころはまだ「いろおんぷ」は考えになかったのかもしれない。
1940(昭和15)年の音楽年鑑に記載されているすみこの欄には、出版物として『新しい考案』のみである。
すみこは「日比谷交差点の信号でひらめいた」といたる所で語っている。しかし今、私達が見ている道路信号は横なので、なかなか音符と結びつきにくい。むしろ鉄道信号の方がわかりやすいような気がする。
日本で初めて設置された日比谷交差点の1930(昭和5)年の信号機は縦型であったそうである。この縦型の信号機では音符に見えなくもない。
すみこは
「信号は一瞬で『進め』『止まれ』という情報を伝える。これにヒントを得た」
と語っている。
そして現在の所一番古い「いろおんぷ」の資料がこれである。
すみこ旧宅にあった古いスクラップ帳である。1941(昭和16)年から1942(昭和17)年あたりのすみれ会に集った生徒たちの絵が貼ってあった。
この中にこんな絵がある。
書いたのは誰かはっきりはしない。しかし他の絵には「ミドリ」と書いてある。
書かれたのは1941(昭和16)年から1942(昭和17)年と思われる。
これは現在のところ一番古い「いろおんぷ」を書いたものである。
この「ミドリ」と書いてある絵とこの絵が似ているので、上記の「いろおんぷの絵」は「ミドリ」が書いたかと思う。
ティーポットを持つすみことすみれ会の生徒たち。楽しそうですね(^.^)。
すみこは最晩年すっかり弱っても「お茶はいかが?」と声をかけていたものでした。
「ミドリ」とは?
この当時すみれ会の生徒であった姫野翠(旧姓飯田)と思う。
姫野翠。1932(昭和7)年、東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業。東京大学大学院生物系研究科修士課程入学。東京大学大学院社会学研究科博士課程満期退学。
作陽音楽大学助教授を経て、昭和音楽大学短期大学部教授。東洋音楽史・西洋音楽史・音楽理論・文化人類学・民族音楽学を講じる。
1995(平成7)年没。享年63歳(まだ若い.....。)
お写真はどこかにフィールドワークに行かれた時のものみたいですね。
姫野翠は長じてからも何かとすみこの教室に出入りしていたようである。後年1983(昭和58)年のすみこの瑞宝章授与の時の記念楽譜にも「七色の花」という曲を掲載させてもらっているのである。(いいだみどりは旧姓。結婚されて姫野翠となられた)
お亡くなりになっているのが残念である。もし生きていらしたら現在89歳。思い出をたくさん語っていただけたと思う。筆者は聞きたかったです。
すみこは
「どうしても音符がわからない生徒がいた。音符に色を塗ってみたら!と閃いてやってみたらうまくいった」
と取材を受けて書かれている。
(1954年2月(昭和29年)「女性教養」241号より16ページ)
1942(昭和17)年に東京音楽学校に入学。規矩士の門下生となった北海道教育大学教授の片桐誠一が
「規矩士先生すみこ先生の家でいろおんぷやげんこ弾き、おはしびきの実験をした」と書いている(協和会ニュースより)
いろおんぷは、この1941年(昭和16年)から1942年(昭和17年)とかの戦争中に、すみことすみれ会に集う生徒達のアイデアとして誕生したと推測します。