さて、げんこ弾きの評判は今一つであったようだ。子供は思い切り加減をしないで叩くので「げんこの手が痛い」という声が多く聞かれた。
すみこは『おさなごのげんこびき続編』を考えたようだが、結局出版は諦めたようだ。
「げんこ弾きは何故黒鍵なのか?」
それは白鍵だと隣の音も一緒に弾いてしまい、弾きにくいからである。なので必然的に楽譜にすると調号の多いものになってしまうのである。
どうも評判が今一つの「げんこ弾き」。そこで次は戦争中に実験をしていたもう一つの「子供向きの教育法」
「いろおんぷ」を発表することにした。
しかしどういう訳か出版社が決まらない。ガリ版で刷って出版社に持ち込むのだが、引き受けてくれる出版社がない。
ガリ版の「こどもがよろこぶいろおんぷ」1953(昭和28)年3月。
結局自費出版で印刷をして出版にこぎつけるのであった。
自費出版のチラシ。1953年(昭和28年)10月
自費出版の初版本の表紙。「Kikushi」とあるので規矩士の物だったかもしれない。
11月8日には披露発表会。銀座ヤマハホールにて。
この披露演奏会では、すみこは規矩士と一緒に2台ピアノを演奏した。
この時いろおんぷの説明をされた中山雅子も、1941(昭和16)年から1942(昭和17)年のスクラップ帳に名前がある。古くからの生徒で、すみこ晩年まで出入りをしていたようだ。右の絵は「ミドリ」と書いてある。
防空壕の絵にも庭でスコップを持つ「マサコ」という女の子がいる。
いろおんぷ発表記念披露演奏会の集合写真
この「いろおんぷ」の普及には規矩士の東京音楽学校時代の門下生、そして戦後になって勤務した武蔵野音楽大学の門下生、フェリス女学院の門下生たちの大きな尽力があった。
披露発表会の一週間後にはもう規矩士の武蔵野音楽大学での門下生小林佐紀子が「いろおんぷ発表会」を開催している。そしてこの会でも中山雅子が「いろおんぷの説明」をしている。
小林佐紀子はいろおんぷ1集の中の「おりこうさん」に「こばやしさき」と名前がある。のちに結婚されて川島佐紀となられた。
そして1954(昭和29)年12月1日には続編である『いろおんぷ2集』を自費出版。
(この本もK・TANAKAと書いてあるので、規矩士のものだったのかもしれない)
そして1955(昭和30)年、やっと引き受けてくれる出版社が現れた。3月『やさしいおんぷのかきかたならいかた』を出版。
この新興楽譜出版社はすみこの著作のほとんどを出版。長いお付き合いとなった。
この頃になると、評判を聞きつけた各地のピアノの先生、小学校、幼稚園の先生の訪問があり、「いろおんぷ」とたなかすみこは順調なすべり出し。普及に弾みがついてきたのであった。