1955年(昭和30)すみこに悲劇が襲う。あの憧れの「田中先生」。すみこが一目ぼれをして恋を成就させた夫、規矩士が胃がんで8月にこの世を去ってしまった。
規矩士は胃が弱かったと伝えられているが、比較的元気で、この当時は武蔵野音楽大学、フェリス女学院に勤務をしていたと伝えられている。しかし急に病状が悪化。あっという間に逝去したと伝えられている。享年57歳。すみこは45歳であった。
この当時武蔵野音楽大学の学生で、すみこの長年にわたるアシスタントであったにしきさゆりがこのことを伝えている。
「それまで元気であった田中教授の休講を伝える掲示が夏の初めにあったのよ。そのうち噂で『田中教授は重病らしい。門下生が慌てている』と聞いた。そしたらあっという間に訃報が出てね」
すみこのショックはいかばかりか。葬儀の時に失神してしまったと親族が伝えている。
規矩士が病気になったらお見舞いで皆さんがメロンを持って来た。規矩士の悲しいできごとがあったので、すみこはメロンが大嫌いになってしまったという話が伝わっている。
規矩士在りし日、二人で。
意気消沈しているすみこに思わぬ朗報が届く。
規矩士が亡くなった2ヶ月後、1955(昭和30)年10月13日、生活を豊かにする第五回「女性の発明展」(主催:社団法人発明協会・読売新聞社。後援:特許庁・婦人経済連盟)において自身の発明品「いろおんぷとその教習具」(足踏み移動式子供用オルガンを含む)に対して特賞「婦人経済連盟賞」を受賞。
発明家でもあったと伝えられているすみこの父、黒澤貞次郎のDNAであろう。すみこも父と同じような「発明」が認められてとても嬉しかったと思う。
そして子供時代、足が届かなくて苦労したオルガンの足ペダル。それを改良したものも認められてうれしく思ったことと思う。
(すみこが発明をして、ヤマハが制作販売をしたのかもしれない)
こののちすみこはたくさんの発明をするが、試作品は実弟黒澤張三がしたとのことである。このオルガンの試作も実弟黒澤張三がしたかもしれない。
そして意気消沈しているすみこを規矩士の元門下生たちが支える。
「すみこ先生、いろおんぷは順調なすべり出しです。いろおんぷを広め、そしてピアノ教師の研修の場を作りましょう」
規矩士の東京音楽学校の門下生たち、後に香川大学教授となった藤原高夫、後の北海道教育大学教授となった片桐誠一、後の愛知教育大学教授となった今岡静子、そしてあの豊増昇、そしてこれも規矩士の門下生であった中田喜直などが発起人になって「全国いろおんぷ協和会」が発足したのであった。
(実際にはこのような形にはならなかった)
発足の年月日はすみこが書いているものの食い違いが多くはっきりはしないが、公式に発表された設立記念日は1957(昭和32)年10月10日である。
この「全国いろおんぷ協和会」の会員は、規矩士の東京音楽学校、武蔵野音楽大学、フェリス女学院の門下生たち、「すみれ会」で学び、すみこのアシスタントとなったすみこの弟子たち、その保護者、1953(昭和28)年の「いろおんぷ発表」以来、いろおんぷで指導を始めたピアノ教師たちであった。
この「全国いろおんぷ協和会」と「いろおんぷ」は当初規矩士が勤務した武蔵野音楽大学も応援をしたようで、武蔵野音楽大学内にも積極的にポスターを貼らせてもらえたようだ。後にそれを見てにしきさゆりが「たなかすみこと全国いろおんぷ協和会」の門を叩くのであった。
この「全国いろおんぷ協和会」はピアノ教師、音楽教室教師の集まりの最古参かもしれない。
(たなかすみこが2007年に亡くなったので、2008年「たなかすみこ先生追悼の会」をやって正式に解散。現在はありません)