田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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22.たなかすみこものがたり9 ヤマハ実験教室の話

さて話は少し前後する。

2021年6月以下の本が出版された。『ピアノの日本史』田中智晃著

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この本に「たなかすみこいろおんぷ」の話があったのでざっとご紹介をする。(勘違いをしていたらすみません)

 

戦前の音楽公教育は唱歌が中心であったが、戦後器楽も取り入れられることとなった。

この本によれば1958(昭和33)年に改訂告示、1961(昭和36)年から実施された新しい「学習指導要領」によって全国の小中学校でオルガンによる器楽教育が盛んになり、楽器業界が行ったPR活動は、幼児向けの音楽教室運動と相まって、一種の器楽ブームが起きたそうである。

この指導要領に「オルガンでごく簡単な旋律をさぐり弾きする」という項目が明記。オルガンは従来唱歌の伴奏などに使用される教員用の楽器として考えられてきたが、新しい指導要領によって「生徒が弾かなければならない楽器に変化」してしまった。つまり生徒にとっては「鍵盤楽器をお稽古ごととして習うことがが単なる趣味ではなく、学校の成績を上げるためにも役に立つこと」となってしまった。(138ページ)

大手楽器メーカーヤマハはこの流れに協力。器楽指導に慣れていない教員のために無償で「器楽指導員」を派遣。その活動の中で地域のPTAや保護者との関係作りを行い、楽器を納入という流れを作っていった。

音楽教室に通うのが流行り出したそうである。

しかし楽器というのは習熟するのに案外時間とお金がかかる。手に入れたらすぐに楽しめるものでもない。学校で少しは「オルガンの弾き方」を習ってもすぐ弾ける訳ではない。楽器を購入したらその後独自に使用方法を習得しなくてはならない。

その解決法を考えたのが当時ヤマハ東京支店卸課長、銀座店店長であった金原善徳であった。彼は後にヤマハの取締役となった。

 

当時ピアノが欲しい顧客を探すのに苦労をしていた。個人の音楽教室を探し出して、彼等からの紹介で顧客情報を手にしていた。しかしこの当時は「顧客紹介手数料」を支払う慣習があった。この「顧客紹介手数料」はそこそこの値段であったようで、この問題に頭を抱えていたようだ。

 

「だったら製品(この場合オルガンやピアノ)の使用方法教授と顧客情報欠如を補うために、『音楽教室』を自前で作ってしまおう!」

 

1954(昭和29)年4月にヤマハ音楽教室1号教室として、ヤマハ銀座店の地下に「ヤマハ音楽実験教室」という名称で開設。そして千葉県の伊藤楽器、東京の菅波楽器などの関東の有力な特約店も実験的に音楽教室を開講。

 

「バイエルコース」に井口基成氏、「メトードローズコース」に安川加寿子氏を責任者として招聘。それらのコースとともに

「いろおんぷ科」を設け、たなかすみこを責任者とした。

 

この銀座店での「実験教室」では、音楽を楽しんで学ぶ「いろおんぷ科」が最も成功したそうです。(146ページ)

 

これらの実績で、ヤマハ音楽教室の当初は「楽器が弾けるようになること」が目的だったが、「幼児は音楽的総合力の基礎を教えたほうがよい」と方向転換をした。それがヤマハ音楽教室の「幼児科」に繋がった。

そしてヤマハは特約店などが設置可能な音楽教室にするために、テキスト、教具、レッスン方法などを標準化。それが後の「ヤマハメソード」と呼ばれる教育システムへと発展していった。

 

しかしすみこが出版した「いろおんぷ1集」「いろおんぷ2集」は採用されなかった。

 

1959(昭和34)年3月の発表会のご案内のハガキがすみこ旧宅にあった。この本では実験教室は2年であったようだが、実際には「ヤマハ音楽教室」になった後も「いろおんぷ科(いろおんぷ教室)」が存続していたことがこのハガキでわかった。

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