田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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62.規矩士すみこのステキなおうち1

「規矩士・すみこのステキなおうち 1~4」の記事は清水建設株式会社の関 雅也・畑田尚子の両氏よりご教示いただきました。両氏に厚く御礼申し上げます。(2022年8月6日追記)

規矩士とすみこは1934(昭和9)年、念願であったスタジオ付きの自宅を建設した。場所は東京都世田谷区東玉川。この当時はまだまだ郊外であった。

施工会社は清水建設(当時は清水組)大友弘設計。大友弘設計の建築物は、美智子上皇后陛下のご実家(現存せず)などがある。現在現存しているものは文化財指定されているものが多い。

この大友弘設計の建築で現存、そして有名なものは、根津嘉一郎別邸(熱海)であろう。

kenchiku228.blog85.fc2.com

大友弘は1888(明治21)年東京生まれ。1904(明治37)年清水満之助店(後の清水組、そして清水建設)に15歳で入店。工手学校へ通い,1907(明治40)同校を卒業した。1934(昭和9)年には住宅設計係長,

1943(昭和18年)には設計部設計課長に就き,1948(昭和23)60歳で退社。一貫して設計職にあったという。1963(昭和37)年に没した。

15歳で入社した大友弘はいわばたたき上げの技術者だったのかもしれない。

余談であるが、この時代はまだ「丁稚奉公」から入社する例も多かったようだ。会社は違うが、ヤマハ、当時の日本楽器の技術部長として戦前の国産ピアノ製造を牽引した山葉直吉が日本楽器に入社したのが9歳。後にカワイ楽器を創業する河合小市が入社したのが11歳、ディアパソンというブランドのピアノで有名になった大橋幡岩が入社したのが13歳とのことである。なので、大学卒ではなく「たたき上げ」で技術を磨いた技術者がどこの会社にもいたのだろう。

話は戻るが、大友弘がこの規矩士すみこ邸を設計した同じ頃、新潟県の朝日酒造松籟(しょうらい)閣(旧平澤家住宅)も同じ大友弘の設計で建築が進められていた。

この建物の洋風寝室と、応接室が大友弘の設計だそうである。

www.asahi-shuzo.co.jp

 

平山育男 松波秀子 2004「近代建築における建設会社設計部技術者の研究一大友弘の業績を通じて一」住宅総合研究財団棚究論文集No.31

http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2004/0331-0.pdf

先のPDFによると、松籟(しょうらい)閣(旧平澤家住宅)は、図面に1934(昭和9)年5月4日という日にちが書かれている。規矩士すみこ邸の図面には同じ昭和9年2月26日と書いてあるので、ほぼ平行して建築が進んでいたのだと思う。

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bunka.nii.ac.jp