田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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76.ピアノコンサート「田中邸に響く音」報告3 コンサートのプログラム1

当日配布したプログラムを全文ご紹介します。

執筆は錦織麻里・野澤利恵です。

 

(以下プログラム本文)

ご挨拶

 本日はピアノコンサート「田中邸に響く音」に足をお運びいただきまして、ありがとうございます。出演者一同、御礼申し上げます。

 2020年8月、田中邸が取り壊されることになり、田中邸の窓枠が鈴木のぞみ様の手に渡りました。鈴木様は古い窓に宿る想いを、写真を用いて可視化する作品を制作されます。家は残念なことになくなってしまいましたが、そこにあった窓は鈴木様の手によって、作品として永遠の命を得ることが出来ました。

 このことは関係者一同、胸が熱くなる出来事でした。家はなくなっても、あの家に込められた想いは作品を通して今日、ここに集われた方々の元にも届けられました。

 作品を制作された鈴木様、そしてこのコンサートの場を提供してくださったカフェ&スペースNANAWATA様に厚く御礼申し上げます。

 

 

 田中邸は1934年(昭和9年)、東京音楽学校ピアノ科教授田中規矩士、音楽教育者として「いろおんぷメソード」を開発したたなかすみこ夫妻のミュージックサロン兼自邸として建築されました。施工会社は清水組(当時。現在の清水建設)、設計者は大友弘。大友弘の代表作は美智子上皇陛下のご実家(現存せず)、根津嘉一郎別邸(熱海)などがあります。

 今回展示されている窓も大友弘のデザインだそうです。

 田中規矩士は1897年(明治30年)神奈川県横浜市生まれ。現在の所いつから、そしてどうして音楽の道を志したのかはわかりませんが、1919年(大正8年)3月 東京音楽学校を卒業。成績優秀だったのでその後研究科に進みました。

 1922年(大正11年)4月1日付けで旧制武蔵高等学校唱歌(音楽)の講師、1923年(大正12年) 1月8日付け東京音楽学校教務嘱託。

 1928年(昭和3年) 2月より文部省派遣在外研究員としてドイツに留学。ベルリン高等音楽院ピアノ科教授レオニード・クロイツァーに師事。

 1930年(昭和5年)帰国。同年東京音楽学校教授に就任。器楽部ピアノ科教授、師範科教授。

同年門下生であった黒澤すみ(たなかすみこ)と結婚。

 1946年(昭和21年)東京音楽学校退職。後に東京女子高等師範学校武蔵野音楽大学フェリス女学院短期大学で教鞭を取りました。

 彼の人生は一貫して教育と演奏活動に従事したものでした。

 著名な門下生は、桐朋学園音楽部門の設立メンバーの一人でもある井口基成、東京藝術大学教授として戦後ピアノ界を牽引した田村宏の師、永井進東京音楽学校、後に東京藝術大学教授がいます。つまり、井口基成、そして永井進から田村宏という、戦後ピアノ界を牽引した大家の礎に田中規矩士がいるということです。

 他に作曲家中田喜直、ピアニストとして活躍をした豊増昇などが門下生でした。

 1955年(昭和30年)没。

 妻、たなかすみこ(本名田中すみ。旧姓黒澤)は1909年(明治42年)東京に生まれました。父は和文タイプライターや電信機器の開発の礎になった黒澤貞次郎。

 音楽好きの母と長兄、黒澤敬一の影響で家の中は、絶えず音楽が流れていたようです。本人は「ピアニストのゴドフスキーが弾くショパンのレコードを聴いて、ピアニストを目指した」と語っています。1923年(大正12年)より田中規矩士に師事したようです。

 1926年(大正15年)4月東京音楽学校入学。ピアノ専攻。井口基成と同級生でした。

 1930年(昭和5年)3月東京音楽学校卒業。同年恩師でもある田中規矩士と結婚。

 1934年(昭和9年)田中邸建築。ふたりの自慢はミュージックサロン兼レッスン室「きくの間」。

 すみこはここで音楽教室「すみれ会」を主宰。初級の生徒はすみこ担当、上級の生徒は規矩士担当だったそうです。このレッスンや音楽教室の会場は「きくの間」でした。「きくの間」ではサロンコンサートも開催。客間としても使われました。門下生のお見合いの席、結婚式までやったということが伝えられています。

 1953年(昭和28年)いろおんぷメソード発表。このいろおんぷメソードの考案、開発もおそらく「きくの間」でされたと思います。

 規矩士亡き後は、「きくの間」はすみこの音楽活動、教育活動の中心となり、すみこ主宰の指導者団体「全国いろおんぷ協和会」の本部として、会員の活動、レッスン、コーラスグループ活動、マスタークラス、講習会、デモンストレーション会場、と多彩な活躍の場所となりました。

 1955年(昭和30年)代以降、ピアノブームとなり、すみこの音楽教室「すみれ教室」(すみれ会から改称)にはたくさんの生徒が押し寄せました。「きくの間」だけでは生徒がさばききれなくなり、玄関脇の「すみれの間」や、女中部屋にもピアノを置いて、田中邸の主な部屋は、「音楽教室」となりました。

 田中邸は多くの人が集うにぎやかな邸宅でした。

 時は流れ、2000年(平成12年)91歳となったすみこが弱ってしまい、音楽教室は閉室。きくの間はすみこの療養場所となりました。

 元アシスタント、元弟子たちがすっかり静かになった田中邸に少しでも「音楽を」ということで、「すみっこ会」というサークルを立ち上げ。1ヶ月か2ヶ月に1回、懇親会とすみこに音楽を届けました。2007年11月98歳にて没。

(続く)