田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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79.ピアノコンサート「田中邸に響く音」報告6 コンサートのプログラム4

第 3 ステージ        野澤利恵

①リスト:『ウィーンの夜会』第 6 番(シューベルトによるワルツ・カプリス)

Liszt:Soirées de Vienne (“Valses caprices” de Schubert) S.427/6

②リスト:『メフィストワルツ』第 1 番

Liszt:Erster mephisto-walzer S.514 R.181

第3ステージ曲目解説     野澤利恵

 リストは他作曲家の歌曲、オペラアリアなどをピアノ演奏会用に数多く編曲しています。録音技術の無い時代には、自分の好きな曲を楽しんだり、演奏して広めるために編曲する事は、ごく一般的な事でした。リストによる編曲の多くは、自身の超絶技巧を披露すべく難曲で、同時にとても華やかです。

 ですが《ウィーンの夜会》は、そのような編曲とは少し異なります。

 シューベルトは非常に多くのワルツやドイツ舞曲を作曲しましたが、そのほとんどは無名です。それらの舞曲から、リストが自由に楽想を選んでウィーン風ワルツのようなスタイルでまとめ、十数曲を《ウィーンの夜会》として出版しました。超絶技巧はやや控えめで、シューベルトの曲のオリジナルな性格が良く感じられます。

 シューベルトの曲には共通して、“ここではない、どこか理想の場所”を求めて、憧れ、さまよい歩くテーマが見られます。社会的に大成功していたリストが、シューベルトの現実から一歩離れた理想郷への憧れに強く共感していたのは興味深く思われます。

 

 メフィストフェレスゲーテの『ファウスト』に登場する悪魔ですが、『ファウスト』はその後の芸術に多岐にわたる影響を与え、それによって生まれた音楽作品は少なくありません。

 リストはもともと、文学からインスピレーションを受けて作曲する事が多く、ゲーテの『ファウスト』を読んで早速《ファウスト交響曲》を作曲し、その後、時を置かずにレーナウの『ファウスト』の二つの場面をオーケストラ曲にしました。そのうちの一つ《村の居酒屋での踊り》を自身の手でピアノ用に編曲したものが《メフィストワルツ 第一番》です。

 強い力を持ち大概の事は難なく出来てしまう悪魔と、常人には考えられないようなリストの超絶技巧は相性抜群だったのか、今では原曲のオーケストラ曲より圧倒的に人気があります。

 曲中、メフィストの弾くヴァイオリンや鳥の声など、現実の音をピアノで真似た箇所も特徴的です。

(プログラム本文終わり)

 

第3ステージの曲目と田中規矩士・たなかすみことの関わりを書いておきます。

1曲目はウィーンの夜会。ウィーンと言えば。

田中規矩士はベルリンに留学したが、たなかすみこは留学経験はない。1964年(昭和39年)の海外渡航自由化まで、一般の人が海外に気軽に行くことは出来なかった。

1970年(昭和45年)、すみこは初めてヨーロッパに旅立った。旅程は詳しいことはわからないが、残された写真からパリとウィーンには行ったようだ。とくにウィーンは印象に深く残ったようで、帰国後に「ウィーンは良かった」と夢見心地であのきくの間で語ったそうである。

ベートーヴェンハウスでのすみこ

そして2曲目、メフィストワルツ。この曲は1931年(昭和6年)5月4日、場所は日比谷公会堂にて、規矩士とすみこの師のレオニード・クロイツァー教授の初来日リサイタルで演奏された。旧宅にプログラムが残されているので、このリサイタルに規矩士・すみこは出かけたと思われる。

この初来日の時東京音楽学校では、クロイツァー教授のマスタークラスがあった。このマスタークラスに規矩士は受講生として、すみこは聴講生として参加したという記録がある。(東京芸術大学百年史演奏編)

この曲を規矩士が弾いたという話は今のところわからないが、東京音楽学校でもよく弾かれているようなので、規矩士もよく知っている曲であったかと思う。

ユダヤ人だったクロイツァー教授がドイツでの職を追われて結局日本に定住をするのが1935年(昭和10年)。規矩士とすみこは日本でクロイツァー教授のレッスンを受けた。主に2台ピアノのレッスンを受けたが、きくの間にあった2台のピアノで練習をされてレッスンを受けられたかなと思う。お二人が熱心に練習されているのを、あの窓も聞いていたであろう。