田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

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78.ピアノコンサート「田中邸に響く音」報告5 コンサートのプログラム3

(プログラム本文)

第2ステージ

にしきさゆり「いろおんぷ」を語る。

 にしきさゆりと「いろおんぷメソード」の考案者たなかすみことの出会いはいつなのだろう?本人の話では

「田中規矩士先生が武蔵野音大の先生だったので、『いろおんぷ指導講習会』のポスターが学校に貼ってあったの。それを見て興味を持って銀座ヤマハの地下であった指導講習会に行ったのが始めよ。1956年(昭和31年)秋だったと思う。私が大学4年の時よ。(にしきさゆりは武蔵野音楽大学出身です)卒業後私は小学校の先生になったので、一時期はご縁がなかった。その後小学校の先生を辞めることを考えるようになった。1958年(昭和33年)秋に「第一回いろおんぷ講師試験」というものがあって受験。その時にすみこ先生から『学校を退職するなら、すみれ教室の先生にならない?』とヘッドハンティングされたのよ。結局1959年(昭和34年)小学校を退職。そしてすみれ教室講師と、全国いろおんぷ協和会のメンバーとして活躍始めたの。すみこ先生の指示で鎌倉や、銀座十字屋教室、銀座フクヤマピアノ教室などに『いろおんぷ講師』として、多忙な日々になったのよ。」

「あれから2007年にすみこ先生が亡くなるまでずっと側にいたのよね。48年も」

筆者「よく飽きなかったねえ。イラつくこともあったでしょ?」

にしき「なんやかんやあったけど、私、すみこ先生のことが好きだったんだと思う」

 筆者も生まれた時からとても可愛がっていただきました。あの田中邸は筆者も思い出がたくさんあります。

田中規矩士の作曲を少し。

 田中規矩士、たなかすみこが教育を受け、そして活躍を始めた昭和初期までは、日本ではどうやら演奏家だけ、作曲家だけという分業は曖昧であったかもしれません。その頃活躍した他音楽家たちも「演奏だけではダメ。作曲も出来て一人前」という価値観が見受けられます。なので規矩士もすみこも作曲にも励んだようです。今日は田中規矩士作曲でおそらく一番歌い継がれていると思われる曲を演奏します。

《武蔵賛歌》

 この曲は規矩士が旧制武蔵高等学校の講師だった1928年(昭和3年)4月15日に行われた開校記念式に、講堂にて初演されました。それから旧制武蔵高等学校の後継である武蔵高等学校・中学校の事実上の校歌として現在まで歌い継がれているのだそうです。

 しかし残念なことに規矩士がこの初演を聴くことは出来ませんでした。同じ1928年2月に文部省派遣在外研修員としてドイツに旅立ってしまったからです。遠いドイツ、ベルリンからこの開校記念式に想いを寄せていたと想像しています。

(続く)