(2024年8月10日投稿)
戦争中の話
さゆ里「太平洋戦争は長引くばかり。歌う曲も軍国歌謡ばかり。8㎞先の神社まで木刀担いで、軍歌や軍国歌謡を歌いながら戦勝祈願に行ったりもしたわね。南山小学校で大正自由主義教育を受けたはずなのに、この頃にはいっぱしの『軍国少女』になっていたわ。教育って怖いわね。
疎開先にはピアノの先生はいなかったけど、街で一番上手な人が教えてくれた。得意曲はエステンの『人形の夢と目覚め』よ。非国民とか言われながらもいろいろな所でけっこう弾いていたわね。」
さゆ里「1944年(昭和19年)7月、『絶対国防圏』と言われたマリアナ諸島が陥落したの。マリアナ諸島が敵軍に落ちると、日本全土に空襲が来るって言う訳よ。大人たちが『えらいことになった』とひそひそ話をしていた。とても怖かったわ。」
麻里「そういえばある人が『敵機が来たら熱田神宮の神様が大弓をひいて敵機が落ちるんだ。それで敵軍はビックリして戦争が終わるんだ』って近所のおばあさんが言ってたっていう話をしていたわね。」
さゆ里「私の父はその類の話は『信用ならない』って言っていた。『国力の差で日本は負ける』って言い続けるもんだから、私は父が憲兵につかまるんじゃないかってとても心配したのよ。」
(注:この時代は治安維持法があった。)
さゆ里「1944年(昭和19年)12月7日、東南海地震があったの。大地震であちこちで大被害よ。でも次の日は12月8日の太平洋戦争開戦の日よ。新聞は一面トップに天皇陛下のアップの写真。そして紙面のすみに「東海地方で地震があった。被害僅少なり」って書いてあったの。あれで被害僅少?その時に新聞はウソをつくって知ったのよ」
(注:東南海地震とは1944年(昭和19年)12月7日午後1時に発生。海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。)
麻里「地震の6日後の12月13日に名古屋の大曾根にあった三菱重工業大幸工場が空襲被害に遭いましたね。」
【ピースあいち|シリーズ戦争を考えるための遺跡⑦『ナゴヤドームにある平和のメッセージ】
https://peace-aichi.com/piace_aichi/201111/vol_24-3.html
さゆ里「そうよ。その頃から、名古屋に頻繁に空襲があるようになったのよ。そしてあくる昭和20年1月13日は三河地震よ。丑三つ時だったかな?灯火管制で真っ暗なのに、地震の時、空が光ったのよ。」
(注:東南海地震の37日後、1945年(昭和20年)1月13日午前3時に内陸直下型の三河地震が発生し、死者は2,306人に達した。この地震は余震が多かった。そして発光現象が見られたという伝承がある。)
さゆ里「上からは爆弾が降ってくる、下は地震の余震で揺れっぱなしよ。そして3月12日未明には名古屋大空襲よ。私は市内在住ではなかったけど、名古屋の方が真っ赤になって怖かったわ。」
さゆ里「昭和20年3月のことだけど、近所に兵舎があったの。どういう訳か沖縄からの兵隊さんが多かった。その兵舎で『慰問の会』があって、兵隊さんのために学校からダンスをしに行ったんだけど、その時沖縄の兵隊さんが『安里やユンタ』を歌って泣くのよ。どうしちゃったのかな?と思ったら、4月から沖縄戦よ。この当時は報道管制が敷かれていたと思うんだけど、沖縄の兵隊さんたちは、このあとどうなるのか知っていたのね。」
(注:実際には3月26日に沖縄の慶良間列島に米軍上陸。地上戦が始まっていました。)
(慰問の会の写真)
さゆ里「5月に名古屋城が燃えたの。昼間の空襲だったと思うんだけど、報道管制下なのに、『大変だ!名古屋城が燃えている!』というニュースは近隣の街々に燎原の火のごとく伝わったのよ。大人たちが名古屋城に向かって念仏を唱えだした。とても恐ろしかった」
(注:名古屋城が空襲にあったのは5月14日です。)
【名古屋城「誤爆」を推理する◆「名古屋城が炎上した5月―名古屋大空襲展」によせて ピースあいち研究会 西形久司】
さゆ里「名古屋は空襲で焼け野原。そして近隣の街々もどんどん空襲が始まっていた。このまま名古屋の近隣に居ても危険ということになって7月末に再疎開したの。今度は御嶽山の岐阜県側のふもとよ。その時、「空襲激化での引越し」なので、「大事なヤマハの2号」は持っていかれなかった。なのでピアノを売ってしまった。とても悲しかった。」
(戦争中に出征した親戚に送った写真。よく見ると真ん中の女の子の靴下には大きな穴が開いている。右の女の子のもんぺは短い。これを見た出征した親戚は「銃後はもんぺも新しくできないのか?穴の開いた靴下をはいているのか?こんな状態で日本は大丈夫か?」と不安になったと伝わっている。右端がにしきさゆり(錦織さゆ里)